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【校舎が学びの比喩になるということ】内田樹の「最終講義」レビュー

 

 

こんにちは。歯科衛生士のナカタ コマチです。

 

 

先日の「困難な結婚」につづき、内田樹さんの著書のレビューです。

【過去記事:内田樹の「困難な結婚」レビューで結婚の極意を学ぶ 

 

 

今回は内田さん初の講演集の紹介です。

 

 

内田さんは21年間、神戸女学院大学で教鞭をとっておられました。

 

 

この講演集には、その最後の退官の際に行った講義「最終講義」をふくむ六講と、文庫版付録として一講が加えられた計七講が収録されています。

 

 

講演集ということで、文章の端々にライブ感がほとばしり、グイグイ読ませる内容になっています。

 

 

が、ページをめくる手が止まらない…というタイプの内容ではなく、すこし読んでは自分自身と会話して、というかんじで(自然と胸が熱くなってしまうページもあり)新しい知見を得ることができるすばらしい本でした。

 

 

大人も子どもも、そして子どもをもつ親も、「教育とは」「学ぶとは」という命題に自分なりの答えを出すための格好の一冊だとおもいます。

 

 

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さきほどライブ感と言いましたが、内田さんは講演の際の準備は以下のようにされているということです。

 

  • 事前にかなり詳細なメモを作る
  • が、壇上ではそのメモはほとんど使わず
  • その場で思いついたことを話す

 

じっさいには使わないメモを作るのは、「もしも話に詰まったら使えばいいや」という理由で、現場で安心して脱線できるからだということです。

 

 

こういった「あらかじめ自分が何を話すか決めておいて、その予定表通りに授業(講演)をする」式のやり方を好まない内田さんの考えは、この本の中でもいろいろな部分で象徴的にあらわれます。

 

 

たとえばシラバスに対する考え方もそのひとつです。

 

 

利便性や効能では学びは発動しない

 

シラバスとは

各授業科目の授業計画の大要。

大学の授業の名前や担当する教員の名前、講義の目的、各回の授業内容といったことを示しており、学生がどの講義をとるかを決める際の資料となる。

シラバス(しらばす)とは – コトバンク

 

といったものですが、内田さんに言わせると

 

シラバスを読むと、学生たちがこれから学ぶことについて一望俯瞰できる。その努力がもたらす報酬があらかじめ一覧的に開示されている。

それって、商品のスペックでしょう。

「あなたがお買いになる商品はこういうような効能です。成分はこれこれです。一日何回服用してください」というのと同じです。

 

というもので、こういった「教育内容の品質保証」システムを考えついたのは、 人間の知性のありようをまったく理解していないビジネスマンに違いないとして、今では常識となっているシラバスの存在について否定的な立場に立っています。

 

 

教育は商品ではないということです。

 

 

そもそも、人間の知性というのはどんなときに発動するものなのでしょうか。

 

 

内田さんは本の中でこう言います。

 

 

まず、人間が「ものを学びたい」と思うときの、もっとも真っ当な心のありようというのは

 

いつだって「なんとなく」 

 

 であり、

 

これを勉強すると、こういう「いいこと」があるよと報酬を示されて動くような知性は知性的じゃない

 

とした上で

 

人間の知性が活発になるのは、「これを勉強したい」のだけれど、どうして勉強したいか「わからない」というときです。

勉強する以外に、この「もどかしさ」を解消する手段がないから、勉強する。 

 

 これが「学びの王道」だというのです。

 

 

わたし自身、こういった内田さんの考え方にはとても共感する部分があります。

 

 

「これをやると、こんなふうに役に立つよ。いいことがあるよ」と言われて始めた勉強(ときには遊びでさえも)は、なかなか続かなかったりする一方、

 

 

なんでって言われるとうまく言えないけど、なんとなく、楽しそうかもーと思って始めたことは細々とでも続けていられたりするんですよね。(このブログもその類かもしれません (^^))

 

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市場原理主義者には理解できないこと

 

 

今は日本の大学は冬の時代で、つぶれる学校も出てくるなど淘汰がすすんでいますよね。

 

 

そんな中、経営不振で悩んでいる学校はシンクタンクなどに再建案を求めます。

 

 

神戸女学院大学も例外ではなく、かつては調査員からヒアリングなども受けたそうです。

 

 

その中で調査員のひとりがこんなことを言いました。

 

 

地価の高いうちに岡田山キャンパスを売り払って、三田あたりに移転すればいいのに。

 

さらに

 

築60年の建物なんて無価値です。維持費に金がかかるだけで、こんな建物を持っているのはドブにお金を捨てるようなことです。

 

とまで。

 

 

このとき、内田さんはやっぱり「市場原理主義はダメだ」と深く実感したそうです。

 

 

なぜなら、神戸女学院大学の建物というのはアメリカの建築家ヴォーリズが手がけたものなのですが

 

この建物の中にいると気持ちが落ち着くとか、話がしやすいとか、知的な高揚感を覚えるとか、そういったそこに生きている人間にとっては自明な身体実感は数値化することができません。

 

ですから経済的なものさしで計るとき、この建物の価値はゼロ査定されてしまうんですね。

 

 

これはなにもスピリチュアルな感覚の話ではなく、校舎を建築するにあたってすべてを計算していたヴォーリズの思想を感じ取る知性があるかどうかの話しなのです。

 

 

ヴォーリズ建築の「仕掛け」

 

内田さんご自身、ヴォーリズの設計した校舎に隠された「仕掛け」に気がついたのは、阪神大震災の復旧工事のときだったそうです。

 

 

じつはこのヴォーリズ建築には

 

隠し廊下があり、隠し階段があり、隠し扉がある。

 

 のです。いわば建物全体が、ある種の迷路のようになっている。

 

 

扉の先に何があるか、廊下の先には何があるかは実際に自分で歩いて、扉のドアノブを回して中に入ってみないとわからないつくりになっているのです。

 

 

たとえば、総務館の理事室の後ろにある「隠しトイレ」は、暗い階段を上り、細い廊下を進んだ奥にあります。

でも、そこがこの大学でいちばん風景のいいトイレなんです。 

北に大きな窓があって、用を足しながら藤棚や銀杏の木の向こうに甲山を望む事ができる。

 

こういう仕掛けが校舎の随所にあるということなのです。

 

 

これはまさに遠い昔に没した建築家から学生への、個人的な贈り物といえると思います。

 

 

そして内田さんはこういった建築における思想を「校舎そのものが学びの比喩になっている」という点で、これほど優れたものは見出し難いと言っています。

 

 

 

さきほど、人間がものを学びたいとおもうときの心のあり様は「報酬を示されて動く」ものではなく、「なんとなく」心が感じるものこそが本来だという話がありましたが

 

 

このヴォーリズ建築はまさにこの意味での学びに合致した最高の教材だとおもいます。

 

 

ヴォーリズの校舎の扉の前に立つとき、扉の向こうに何があるか、廊下の先に何がああるか、学生たちには事前になにも開示されていません。決意を持って自分の手でドアノブを回したものだけに、報奨が贈られる。扉の前に立っているだけで一覧的な情報を請求しても、ダメなんです。自分の手でノブを回したものだけにしか扉の向こうは開示されない。

 

そういうものだと思うのです。わたしたちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、これから学ぶことへの意味や価値がよくわからないけれども、それにもかかわらず何かに強く惹きつけられる状況においてです。かすかなシグナルに反応して、何かわからないけれども自分を強く惹きつけるものに対して、自分の身体を使って、自分の時間を使って、自分の感覚を信じて、身体を投じた人にだけ、個人的な贈り物が届けられる。

 

 

すばらしいですよね。

まさに「校舎そのものが学びの比喩になっている」ことに感動すら覚えます。

 

 

さいごに

 

今回ご紹介した内容はこの本「最終講義」の中の、ほんの一部の一部です。

 

 

ほかにも

  • 自分の知的ポテンシャルを最大化する唯一の方法
  • お金に換算できない意味や有用性をどうやって学ぶか

 

など、とても刺激的で知的な内容にあふれた本になっています。

 

 

気になった方はぜひお手にとって読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

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